2007/05
大阪の蘭学者たち君川 治



熊取の中家:雷実験の模型

この間文庫の説明資料によると、麻田天文学派の凄いところは、全国の天文学者のネットワークを作って観測データを集めていたことと、天文学者だけでなく儒学者中井竹山・履件兄弟や文化人木村蒹葭堂などの民間学者との交流も盛んであったことである。
 江戸の蘭学者たちの多くは各藩の藩医や藩主の侍医であったが、大阪に異色の蘭学者グループがあった。
 麻田剛立(1734−1799)は元杵築藩の侍医であったが、独学で天文学を学び、脱藩して大阪で医業を開業する傍ら天文学の研究を続けた。望遠鏡などの観測機械を自ら製作し、理論と観測により日食を予言するなど近代的な天文学の先駈けであったと言う。麻田のもとに多くの弟子たちが集まったが、中でも良く知られているのが橋本宗吉、高橋至時、間重富、山片蟠桃、中天游、小石元俊たちである。
 橋本宗吉(1763−1838)は傘屋の紋書き職人であったが、記憶力が優れていたので皆の推薦で江戸の大槻玄沢の下に蘭学修業のために派遣された。わずか1年足らずの修業で大阪に戻り、皆のために天文学や医学の蘭書を翻訳し、更には自らも医学を学んで医師を開業した。晩年はエレキテルに興味を抱いて蘭書を翻訳しながら実験を重ね、「エレキテル究理原」という本を書いている。この本には静電気の実験が多く出ており、挿絵を見ているだけで楽しくなる。
 更にこの本での驚きは「泉州熊取にて天の火を取りたる図説」との絵が出ていることにある。庭の背の高い木の枝に針金を結びつけて、これをたらして絶縁版の上に立った男がこれを持ち、もう一人が地面に立って互いに指先を出して近づける。雷雲が近づいてくると指と指との間に火花が飛ぶというオソロシイ実験である。この家は大阪府下熊取町にこの実験をした中家住宅が今も保存されている。
 高橋至時は大阪同心、間重富は質屋の主人が本業であるが、2人とも剛立の門下生で天文学に精通した。幕府は改暦のために麻田剛立を江戸に招聘するが、剛立は老齢を理由に断り、代わりに高橋至時と間重富を幕府天文方に派遣した。幕府天文方で天文観測に専念する傍ら、京都の土御門家で暦の修業をし、寛政の改暦は彼らの手で行われた。高橋至時は日本地図を測量した伊能忠敬の天文学の師としても有名である。
 間重富(1756−1816)は十一屋という質屋の7代目で、観測技術に優れており、更に観測機械の考案や製作を行った。江戸で改暦作業を終えて大阪に戻ったが、幕府から「観測御用」を命じられて大阪で天文観測を続けた。高橋至時が病死した後、長男高橋景保の指導のために再び江戸の天文方に戻っている。間重富家は重新、重遠、重明と4代天文観測を幕末まで続けており、アマチュア天文学者が幕府の御用天文学者となった。大阪長堀で間重富が天文観測した場所に記念碑が建っている。この間家の天文観測記録や観測機械が間文庫として保存されていたが、現在は大阪歴史博物館に寄贈されて保存されている。
 中天游、小石元俊は蘭学医であり、緒方洪庵はこの2人に師事している。


筆者プロフィール
君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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